年代 |
主な出来事 |
(年代不詳) |
西表村の少年が焚き火中、火が石垣に燃え移る。“燃る石”の発見(口碑) |
明治4 |
鹿児島の人物・林太助が帆船で石垣島に漂着。のち西表の「燃える黒き石」の話を聞き西表に渡航。石炭を確認(教えた人物は、のちに波照間島に流謫(石炭加那事件)) |
明治18 |
鹿児島の士族・田代安定、林太助を県御用掛(※1)に採用し西表島の炭脈を調査
三井物産会社、元成屋などにて試掘。西表における採炭の嚆矢となる |
明治19 |
三井物産会社、本格的な採掘を開始。元成屋などの土地を借区。白浜(しらはま)・木炭(もくたん)(※2)に貯炭場を設置。船浮(ふなうき)港より福建・廈門・香港に輸出 |
明治22 |
三井物産会社の坑夫、マラリアのため福岡県の三池(みいけ)炭鉱に引き上げ。同社による事業は事実上中止 |
明治25 |
三木炭坑、元成屋にて採掘開始。石炭は沖縄開運会社(※4)に供出
三井物産会社の西表炭坑代理人・三谷伊兵衛、同社との間に坑区の貸借契約を結び、内離(うちぱなり)島(成屋)の土地を借区 |
明治28 |
三谷坑、業績振るわず採掘中止
大倉組、内離島の南風坂坑を中心に採掘開始。石炭は香港・上海へ輸出
西表島郵便局を内離島(南風坂)に設置 |
明治29 |
三木炭坑、業績振るわず事業中止 |
明治32 |
大倉組、業績振るわず事業中止
沖縄開運会社(※3)、採炭事業開始。石炭は台湾総督府へ納付 |
明治41 |
八重山炭鉱汽船合名会社、元成屋にて採炭事業開始。石炭は台湾・香港・上海に輸出。内離島(南風坂)に同社経営の私立小学校(南風坂小学校)設置
沖縄開運会社(※3)、事業中止 |
大正3 |
一部の坑夫が那覇に脱走、苛酷な労働の実態を吐露(同年12月の「琉球新報」に「坑夫物語」として掲載) |
大正5 |
岐埠(※4)の資産家・山之内豊太郎、西表炭鉱会社を設立、内離島(成屋)の旧三谷坑で採掘開始 |
大正6 |
第1次世界大戦勃発。国内の石炭の需要が増加
西表炭鉱会社、沖縄炭鉱と改称。本部を白浜に置き、内離島(成屋)にて採掘開始。石炭は香港・上海・那覇・大阪に輸出 |
大正9 |
先島炭鉱会社、仲良(なから)川河畔にて採炭開始。石炭は主に那覇へ輸出 |
大正10 |
八重山炭鉱汽船、不況のため採炭事業中止
河野吉次、八重山炭鉱汽船の業務を引き継ぎ琉球炭鉱会社を設立。内離島(成屋)を拠点に採掘開始(※5)。石炭は那覇・香港・上海・台湾に輸出 |
大正11 |
星岡亀彦、星岡炭鉱設立。仲良川河畔にて採掘開始。白浜に同炭鉱経営の私立白浜小学校(※6)設置 |
大正12 |
共立炭鉱、事務所を白浜に置き上原(うえはら)・稲葉にて採掘開始。のち上原はマラリアにより廃止されたため、新たに崎山にて採掘
先島炭鉱、不況のため事業中止 |
大正13 |
沖縄炭鉱、不況のため事業中止 |
大正14 |
高先炭鉱、仲良川(南側の支流で、俗称「仲良二番川」)河畔にて採炭開始 |
昭和7 |
琉球炭鉱、河野合名会社と改称 |
昭和8 |
高先炭鉱、丸三合名会社と改称。宇多良に進出、丸三炭鉱宇多良鉱業所開設(※7)。のち炭鉱集落が形成され、坑夫納屋・小学校(みどり学園)(※8)・劇場・公民館・病院などが建つ |
昭和11 |
名古屋の資産家・山内卓郎、南海炭鉱を設立。採掘開始 |
昭和14 |
政府、「石炭配給統制法」を制定。石炭の増産奨励金・新坑開発奨励金などの増産対策をとる。また「朝鮮人労働者募集要綱」を策定。朝鮮人の強制労働へ |
昭和15 |
沖縄県警健康保険課、坑夫の健康調査報告書を刊行。労働の惨状を明らかにする |
昭和16 |
政府、炭坑における深夜労働の禁止緩和・幼年労働者・婦人労働者の坑内労働を認める
陸軍、西表島西部に要塞の建設開始。炭鉱の坑夫が軍夫として強制労働に動員される |
昭和18 |
西表炭鉱会社、坑夫の徴用・応召により事実上の事業中止 |
昭和20 |
度重なる米軍の空襲により、坑夫の避難小屋全焼。食糧難による栄養失調、マラリア蔓延に苦しむ。敗戦へ |
昭和23 |
米軍マチウス大佐、復興資材の伐採のため西表に来航。上原採炭所を開設 |
昭和25 |
琉球興発株式会社、米軍より上原採炭所を譲り受け、事業開始 |
昭和27 |
琉球興発株式会社、事業中止。松山哲郎が上原採炭所を譲り受け採掘開始。県内の酒屋・鰹工場の燃料用として供出 |
昭和32 |
上原採炭所、松山哲郎の急死のため事業中止。西表における採炭の終焉 |